百人一首(77)崇徳院/瀬を早み岩にせかるる…楷書・ゆる文字・かな文字で描く書道アート

77番・崇徳院の和歌

ポストカードに顔彩(絵の具)を使い、3種類の書体(楷書・ゆる文字・かな文字)をで描いています

クラフトパンチで緑色の帽子をかぶった妖精さんたちや、蝶々を作って飾り付けしているので、ぜひ!見てくださいな♪

他にも歌意・解説あり

最後に「わたしのひとりごと」

※画像はクリックで拡大するよ!

色違いの2匹の蝶、上流の岩から流れる滝をイメージしてみたよ!

妖精さんたちは、蝶々と仲良くなれたのかな?

かいしょであそぼ!

出典:詞花和歌集 恋

はやみ いわにせかるる 滝川たきがわ

われてもすえに 逢はむあわんとぞおも

歌の意味

川瀬の流れが早すぎて…

岩にせき止められ

流れが2つに分かれてしまっても

やがて、また1つになるように…

今はあなたと別れても

いつか必ずおうと思う

言葉の意味

【瀬を早み】
 流れが早い川底の浅い場所

【岩にせかるる】
 岩にせき止められる

【滝川】
 滝ではなく急な流れのこと

【われても】
 水の流れが岩にあたって別れること
 男女が別れる意味の掛詞

【逢はむとぞ思う】
 水がまたひとつに合流すること
 別れた男女が再会する意味の掛詞

ゆる文字であそぼ!

歌の解説

自然の情景に恋の現状と将来への決意を表現した歌である

山の中を激しく流れる川の水が岩にあたって2つに分かれても、下流ではまた1つになることができる

いつかまた、恋人と一緒になりたいという気持ちをかさねたはげしい恋の歌である

強引に譲位じょういさせられ、不遇ふぐうな人生を送った崇徳院の無念さが伝わってくる

川の上流 ーPhoto AC-

上の句の「われても」は…

急流が岩の両側から2つに分かれて流れ落ちる景色

川の下流 ーPhoto AC-

下の句の「はむとぞ」では…

上流で分れてしまった水の流れが、また1つに合流する景色

最初この歌は…

崇徳院が1150年に83番の皇太后宮大夫俊成に命じて編集した『久安百首きゅうあんひゃくしゅ』のためにんだ歌である

出典:久安百首 恋

なやみ いわにせかるる 谷川たにがわ

われてもすえに 逢はむあわんとぞおも

最初は上の句が「行き悩み 岩にせかるる 谷川の」であった

行き悩み」の意味は…
物事が思い通りに行かず苦労することだよ!

何度か修正して『詞花しか和歌集』に収められる時には、気持ちのはげしさや強い決意けついが感じられる現在の歌になったと思われる

崇徳院ってどんな人?

崇徳院(すとくいん)

第75代天皇〔1119~1164年〕

父は鳥羽天皇(第74代天皇)

母は美貌びぼうで知られる藤原璋子しょうし

1123年

数え5歳(満3歳7か月)で天皇に即位そくい

1129年

76番の法性寺入道前関白太政大臣の娘

藤原聖子せいし入内じゅだいする

入内(じゅだい)とは…
天皇の皇后・中宮・女御になる人のことだよ!

1141年

父親の鳥羽上皇から譲位じょういせまられ、22歳で近衛このえ天皇(第76代天皇)にくらいをゆずる

崇徳院は天皇在位中から歌会をもよおし、和歌の世界に没頭ぼっとうしていた

久安百首きゅうあんひゃくしゅ』を作成

詞花しか和歌集』を撰集する

1156年7月

保元ほうげんの乱

崇徳院と後白河天皇の継承問題による内戦ないせんで敗北し、讃岐さぬき国(香川県)へ流される

配流はいる先での生活

仏教を心から尊敬そんけいし、極楽浄土ごくらくじょうどを願い写本作りに専念せんねんしていた

二度と京都に戻ることはなく46歳で崩御ほうぎょした

かな文字であそぼ!

変体仮名:もとの漢字

せをやみ いわ耳勢可にせか 瀧川たきがわ

れてもすえ あ者牟わんおも

わたしのひとりごと

崇徳院といえば…

日本三大怨霊の一人!!

日本三大怨霊(にほんさんだいおんりょう)とは…
菅原道真・平将門・崇徳天皇(崇徳院)の三人だよ!

百人一首』のメンバーに、怨霊になってしまった人物が二人もいるのが興味深い

やっぱり…

政治的権力争いに巻き込まれ、ドロドロの人間関係が原因なのだろうか…

不義ふぎの子】

鳥羽天皇と藤原璋子しょうしの第一皇子として誕生した崇徳院

しかし『古事談こじだん』には…

白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通みっつうして生まれた子であり、鳥羽天皇は「叔父子おじご」と呼んできらっていたという逸話いつわが書かれている

古事談』は崇徳天皇誕生100年後に作られたことを考えると、真偽しんぎは不明と言われているけれど…

実際、父親にはきらわれていたようだし

火のない所にけむりは立たぬ!

わたしは事実じじつだったと思っている

【保元の乱】

内戦の原因はお世継ぎ問題

76番の藤原忠通ただみち(法性寺入道前関白太政大臣)の娘が入内じゅだいした時

崇徳院は11歳、娘の藤原聖子は8歳だった!?

2人とも現在なら小学生

仲睦なかむつまじかったけれど子どもが生まれなかった」と書かれているのを見ると、いかに周りの大人たちが幼い2人を利用しようとたくらんでいるのがわかる

保元ほうげんの乱」で聖子の父である藤原忠通が、崇徳院とたたかった理由はなぜなのか?

崇徳院の側室そくしつの女性に皇子みこが生まれたからという説がある

娘夫婦は仲が良かっただけに、父娘とも不快感をいだいたのだとか…

それでも…

崇徳院と聖子は『保元の乱』まで常に行動を共にし、夫婦円満だったらしい

その後

崇徳院が流刑るけいされたあと、聖子はかみをすべて出家しゅっけしてしまうのである

彼女もまた、時代の波にのまれた1人だったのかもしれない

【崇徳院のたたり】

保元物語』によると…

保元の乱」にやぶれた崇徳院は、流刑るけいにされ讃岐さぬき国(香川県)で写経をしていた

この写経を京の寺におさめてほしいと朝廷にさし出したところ…

呪詛じゅそめられているのではないか?」と後白河天皇にうたがわれ送り返されてきたそうだ

その後

怒った崇徳院はかみの毛やひげをのばし放題にし、天狗てんぐの姿になったと言われている

ヾ(゚д゚;)オイオイ

讃岐に流された崇徳院 ーPhoto AC-

死後も崇徳院の怨霊はあらそいを起こさせ、写経を送り返した人物をさらし首にし、平家一門を壇ノ浦だんのうらほろぼしたとも伝えられている

(-ω-;)ウーン

一方『今鏡いまかがみ』では…

さびしい生活の中で悲しさのあまり、病気も年々重くなっていったとしるされているものの、いかりやうらみといった話はなかったという

配流はいる先でんだ歌

出典:風雅和歌集

おもやれ みやこはるかに おきつなみ

ちへだてたる ころぼそさに

【歌の意味】

この気持ちを分かって下さい

みやこから遠くはなれた沖の波

立ちへだてた讃岐さぬきにいる心細さを…

讃岐さぬき国に住むことになり、心細い気持ちをんでいる

悲観ひかんの感情はうかがえても怨念おんねんを抱いた様子はない

どっちが本当?と聞かれたら…

わたしは『今鏡いまかがみ』の方が本当だと思える

保元ほうげん物語』に書かれていることは存在しなかったと考えられているし、実際に写本を見たという人物もいなくて記録も見つかっていないようだ

面白おもしろおかしく書かれているだけなんだろうなぁ

その後、時は流れ…

1868年 明治天皇の時代

崇徳天皇の御霊みたまを京都へ帰還きかんさせる

1964年(昭和39年)

昭和天皇の時代

崇徳天皇八百年祭に式年祭が行われる

また九百年祭も行われるのだろうか…

瀬を早み~♪

この歌は配流はいるされる以前にまれた歌

中宮聖子のためにんだ歌と思いたい

参考文献

【書籍】

1.神作光一 監修
 小学生のまんが百人一首辞典
 出版社 学研プラス/256頁
 発売日2005年12月

2.著書 小池昌代
 ときめき百人一首(14歳の世渡り術)
 出版社 河出書房新社/256頁
 発売日1017年2月

3.吉海直人 監修
 百人一首大事典 ―完全絵図解説―
 出版社 あかね書房/143頁
 発売日 2006年12月

4.著書 佐佐木幸綱
 口語訳詩で味わう百人一首
 出版社 さ・え・ら書房/221頁
 発行日 2003年12月

5.著書 富谷松雲
 (ポケット版)常用漢字準拠
 ―八体事典―
 出版社 有紀書房/400頁
 発行日 1993年4月

6.編集 千草会/発行者 内山清蔵
 百人一首
 発行所 松魁堂/113頁
 発行日 1998年5月

【Webサイトの記事】

1.フリー百科事典 ―Wikipedia―
 崇徳天皇
 略歴・怨霊伝説
 更新日 2025年4月14日
 参照日 2025年7月15日

 保元の乱
 背景・経過
 更新日 2025年2月8日
 参照日 2025年7月15日

2.百人一首を探ろう
 崇徳院
 プロフィール・百人一首和歌へ
 参照日 2025年7月15日

3.変体仮名を調べる
 ―五十音順一覧―
 参照日 2025年7月15日

【写真】

1.写真のフリー素材サイト
 ―Photo AC―
 川の上流・川の下流

タイトルとURLをコピーしました